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2013年5月1日水曜日

東南アジア海外生活、長期滞在記。体験談1 滞在動機編

全ブログ記事中 第11話 (経験談)
1 滞在動機 編
Canon Eos 20D + EF-S 18-55mm f3.5-5.6 Ⅱ

ISO-800 30mm f16 1/60

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1 滞在動機 編


これからや将来に、海外生活や移住を現在ご検討中の方々などへ、私の
色々な実体験が何かのお役に立てればと思い、このブログ記事を書くこと
に致しました。

フィリピンに有る日本法人の観光会社から、所有するクルーズツアー船の
撮影取材に来てくれないかと依頼が有り、仕事に忙殺されていた私は、
逃げるように特に期限を考えず、片道航空券で出国することにしました。

ビザが無いと片道航空券で入国出来ないので、事前に大使館に出向き
ビジネスビザ申請を致しました。

日本側が入国ビザを厳しくしている対抗上、あちらも短期観光以外は、
意外と審査が厳しい状態でした。

一度断られ、仕方なく大使館内の観光省の出先機関に相談して、観光省の
推薦状を頂き、90日間のビジネスビザを頂きました。

1ヶ月くらいに考えていた私は、その時には足掛け1年も滞在することに
なるとは思ってもいませんでした。

今は、フィリピンの大学などに語学留学する方や年金暮らしをなさる方も
多いですが、当時は、観光客以外は殆ど無く、工場進出などもエドゥサ
革命の数年後の政情不安でしたので、あまり活発ではありませんでした。

クルーズ船は、台風被害の修理がもう少しで終わる所なのだそうで、
それを何故か手伝いつつも、マニラ近郊の観光名所撮影やルソン島の
隣のミンドロ島撮影旅行などをして暫く過ごしました。

しかし滞在中に、バギオ大地震や度重なるクーデター事件も起き、更に
ピナツボ火山の大噴火にも遭遇し、段々と取材どころではなくなりました。

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バギオ大地震は、多くの死傷者を出した地震でしたが、200kmほど離れた
マニラ市内に居た私には、大したことない地震で、日本人的には震度3
くらいかなと思う程でした。

しかし市内は、震度5なみのパニック状態で、この世の終わりのような
顔をしている方もいました。

古い木造住宅の2階のベットに横になっていた私は、チョッと大きい
かなと思いつつも起き上がることもせず、階段を駆け上がってきた
家人の方に笑顔で答える余裕でしたが、窓の外は逃げ惑う人で大騒ぎ
でした。

近くには有りませんでしたが、倒壊した家も有ったそうです。暫くして
テレビニュースでバギオ地域を見ると、いかにも鉄筋が少ない壁の薄い
学校などが、トランプタワーのような壊れ方をしていました。

日本では、学校は避難所の代わりですが、海外の学校は手抜き公共
工事の典型が多いそうで、この地震での死者は、最終的には1621人
にもなったそうです。

クーデター事件は、国軍内の勢力争いなど複雑な政治状況も有りますが、
テレビや写真で見る範囲の大変緊迫した状況はの周りは、意外と普通な
生活が営まれていて、見物客も多く銃弾慣れした市民に驚かされました。

ピナツボ火山の大噴火は、マニラ市内から90kmの近さもあり、一番の
迷惑事件でした。(バギオ大地震が引き金だとも言われています。)

ベットで昼寝をしていた私は、なにやらザラザラとしたシーツの感触で
目覚め、表に出てみると一面の銀世界ならぬ白世界になってました。

最初に私が考えたのは、近郊に有るアメリカのスービック海軍基地で
核兵器でも誤爆発したかなという思いでした。
するとこれは死の灰か??ではもう手遅れだなと考えた次第です。

既に諦めてテレビを見ると、噴火避難を呼びかけるアナウンサーの
絶叫顔のニュースが放送中で、簡単に命を諦めていた私は、何か
とても安堵しました。

でもその被害は、とても甚大で直接降った灰以外にも沢山の火山灰が
川や海に流れ込み、海岸リゾートの海は、観光客も居なくなり営業
出来ない状況です。

海の写真取材に来た私は、何をしに来たのか分からなくなり、さらに
観光客を呼べなくなったクルーズツアー会社は、立ち行かなくなり、
私も金策の片棒をかつがなくては共倒れとなるため、仕方なく代わりに
地方ツアーへ行く日本人客が来る間、留守番などをして過ごしました。

また修理費用が捻出出来なくなったクルーズ船の修理もする為に、私も
出資した上に修理作業も本格的に始めました。

他にも従業員達が遊んでいて水没させた、ジェットスキーの分解修理も
したり、焼き付いたダイビング用のコンプレッサーエンジンも直したり
しました。

そんな訳で心ならずも元をとるために、本職外の修理技術者として、
私の本格的な海外生活が始まったのでした。

(続く)
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※次回、2 会話学習編 へ続きます。ブログトップからお探し下さいませ。








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